1 ダルエスサラーム
一九六七年八月、ナイロビからダルエスサラームの空港に着く。Tさんご一家が迎えて下さり、お宅に案内される。Tさんは夫の第一回アフリカ学術調査隊の仲間で、当時日本青年協力隊のタンザニア駐在所長。夫は旧交を温め、私は初対面のご挨拶をする。お宅はバームビーチ近くのコンクリート二階建で、使用人としてハウスボーイがいた。
翌日、近くの海岸から見たインド洋の紺碧の海原には心打たれた。ここがアフリカなのか。ナイロビの高原とは全く異なる風景に一瞬とまどいを覚える。海辺の銀色の砂浜。そこには人っ子一人いない。気温は三十五度位、少し湿気を感じる。
着いて三日目から私は体調を崩した。日本出発前の雑用の多忙さからか、あるいは熱帯の軽いビールスに取りつかれたのだろうか。微熱が去らず、頭がムッとした日がしばらく続いた。ダルエスサラームはタンザニアの首都で絵のような美しい海岸とアラブの雰囲気を持つ魅力のある町だ。ダルエスサラームとはアラビア語で「平和の港」という意味だそうだ。
町は非常に清潔で並木通りがあり、道路も広い。日常の買い物のスーパー・マーケットに同行する。やはり輸入品が殆どで高価で庶民向きではない。店は当時の紀ノ国屋より大規模である。私はここで初めてミネラル・ウォーターを知った。海の幸には恵まれていて、イカ刺し、生ガキなど美味しかった。
ある夕、町の中心に近い海岸に行く。ここではアラブ人、インド人、現地の人たちが夕暮れに身ぎれいにして、そぞろ歩きをする習慣があるのだ。とてもゆったりした贅沢で、平和な時間が流れている。道端には露店もあり、焼き栗などを売っている。
一日、Tさん一家と五人でバガモヨに出かけた。途中からあの「星の王子さま」の巨大なバオパブの木を見かけるようになる。大きな実をつけていた。別世界に来た感じだ。バガモヨは昔は東アフリカの重要な港であったし、バートン、スタンリーやリビングストン等もここから出発し、帰ってきた港である。しかしその時はひっそりした村で、人影も見えず、朽ちた建物があるだけだった。また、アラブ人の立派な墓石に埋められていた陶器の皿が一枚を除き剥ぎ取られたあとがあり荒れはてた様子だった。
夫は仕事に出かけ留守がちなので、いつの間にか一ヶ月近くTさん宅に滞在させていただいた。
2 アルーシャの町
八月下旬空路アルーシャに着いた。この町は東アフリカ共同体の主要都市であり、サファリに出かける出発点である。ここは海岸とは違い乾燥しきっている。バランスインという安いホテルに入る。部屋は狭く、シャワーも共同である。朝食付き二人で六十二シル(約三千百円)だった。
翌日朝食後、夫は私に「僕は司令官、君は一兵卒だぞ」と言い、早速用事を言い渡された。近くの保険会社に行き、預けてある車、ランドロバーの車検がどうなっているか確かめて来いと言うのだ。町は英語で用が足りるので助かる。東アフリカの公用語は英語とスワヒリ語である。私は全くスワヒリ語はしゃべれない。戻ってみると夫は寝転んで本を読んでいた。
次の命令はカンカン照りの中、サブザリ自動車に行き、車の修理状態をそばで監視して来いと言うのだ。私は初めての所で様子が分からず、その通りにする。行ってみると日中休んでいる。しばらく立っていると、ドイツ人が通りかかり、そこにいても仕方ない、一緒に食事をと誘ってくれた。彼はこの地のコーヒー園の成功者で、夫の親友キーランド氏の友人であった。ニューアルーシャホテルでローストチキンとコーヒーをご馳走になった。部屋に帰りこの話をすると夫は残念がっていた。
ニューアルーシャホテルはコンクリートの三階建で、この町では一流である。町はのんびりした田舎町という感じ。まさにここはアフリカ、という実感がある。町にはあちこちにアフリカン・レストランがあり食事には困らない。サモサ、チャパティととても美味しいものがある。小さいスーパー、商店は商売上手なインド人の経営だ。やはり観光客用の店は高い。その中央のスーパーは、その昔「ハタリ」という映画で小象が飼い主の女性を追いかけてその店に入って行く場面があったのを思い出して懐かしかった。
一九六一年以来の夫の友人であるキーランド氏が会いに来てくれた。彼はノルウェー人で身長は二メートル近く、逞しく、見るからにバイキングの子孫という感じである。彼は一度、農園で飼っているウシやヒツジをねらってやってきたヒョウに襲われ、敢然と闘い勝った武勇伝で有名らしい。だがその時頭に傷を負った。やはりコーヒー園の成功者である。車で二十分程のコーヒー園を見せてもらう。私はコーヒーの木と青い実を見るのは初めてである。これが有名な「キリマンジャロ・コーヒー」として輸出されていて、標高千六百メートルの丘で栽培されている。
そこから十五分程のウサ・リバーという丘にある、彼の母親が以前住んでいたというレンガ造りの小さな家に案内された。その眼下に広がる景観は見渡す限りの平原で、裏にはメルー山が見え、東に少し離れてキリマンジャロ山が見えるのだ。もう感動の一語につきる。あのヘミングウェイの「キリマンジャロの雪」を思い浮かべ、その素晴らしさは胸が詰まる思いで、言葉がなかった。たとえ一兵卒として使われるのであっても、ここに来られて幸せだと思った。
地平線までの見通しといっても、若い時旅行したスコットランドやウェールズの平原とは全く異なる原風景といえる。しかしその昔はイギリスもこんな原風景であったのを人の手で現在のような美しい風景に変えてしまったのだろう。
その後再度滞在した折、夜中にキリンが三頭、庭に姿を見せていた。とても優雅であったので、私がうっかり喚声をあげ、折角の姿を見失うという失敗もあった。
こうしてアルーシャ滞在も十日過ぎ、いよいよマンゴーラ村に入る準備をする。車にペトロール(ガソリン)を満たし、食料は米、缶詰、キャベツ、ジャガイモ、玉葱、卵、人参、等。それに鍋、フライパン、食器類、ケロシンストーブ、蚊取り線香、薬、水、シュラフ、ウィスキー、トイレット・ペーパー等を整える。かなり古いランドロバーは二人乗りで荷台に荷物、書類ケース、トランクを積みシートをかける。
3 マンゴーラに入る
さあ村を目ざす。夫の運転。十一時出発。マクユニ経由だが未舗装なのでレイクマニヤラまで五時間もかかった。そこで休憩して出てくると、荷台の書類ケースがない。パスポートや財布などは勿論入って無いが、夫の研究書類が無くなり、二人とも顔色が変ってしまった。もと来た道を戻って見たが、落ちていない。やはり油断してはいけないのだ。気を取り直して出発する。大変なことをしてしまった後悔はずっと残る。土ぽこりの中を一時間半でオルデアニに着く。ペトロールと少しの雑貨を置いた店がある。一人入るのがやっとの可愛い郵便局がある。ここはマンゴーラ入りにとっては大事な拠点だ。
この先は本当のアフリカの大地。広大なサバンナに入る。私は初体験で胸がつまり声も出ない状態だった。完全なカルチャーショック。途中幅五メートル程のバーライ(川)を渡る。乾期なので水は少なく車は通れる。灌木が所々にあり、他には何も見えない。その辺からたまに人の姿を見かけ、ドクターと声をかけてくる。
夫は一九六一年から二年半、マンゴーラに住み文化人類学の調査研究のかたわら医療活動もしていたので、そう呼ばれている。彼は医学部出なのだ。
一時間余りでマンゴーラ村に入る。もう暗くなっていた。一軒の家に明々と灯がともっていて前に大勢の人が集まっていた。車より早く夫が来たことが伝わっていて、迎えに出てくれていたのだ。そこは夫の仲間のW先生が二十人位の大人や子供にスワヒリ語を教えている教室だった。電気は自家発電機を使っているので驚いた。
4 村での生活
挨拶もそこそこに、疲れがひどいので私は休ませてもらおうと外に出たら、びゅ−びゅ−砂嵐が吹いている上に、真暗でとても歩けない。百メートルもないところを車で送ってもらう。取りあえず用意された小屋に着く。入り口には象の頭蓋骨等が幾つもゴロゴロ置いてありギョッとする。四畳程の広さにベッドが一つあるだけ。壁は穴だらけで上を見ると屋根も隙間だらけでびっしりと星が見える。あ−、別天地に来た、夢にも見たことのない状態の中にいる。一人ぼっちにされたが、怖いよりも疲れで欲も得もなくすぐ眠りこけてしまった。
夫は明け方戻ったらしく、土間のサファリベッドで寝ていた。外はまだすごい風の音で台風なのかと思った。朝食はW先生の所でミルクティーを飲ませてもらう。その時、昨夜の家では余りにも狭いので、もう少し広い六畳程の土間とベッドのある家を借りることになった。すぐに誰かの家をあけて借りられるのが不思議だった。それは一人暮らしのアリという男性の家だった。後で分かったがベッドのほか殆ど何もないので移動が簡単なのだ。それに現金収入が欲しかったのだ。
トイレは勿論外で、穴を小さく深く掘ってあり、穴の回りに平たい石を四個置いてある。非常に乾燥した土地なのでハエも出ず、清潔この上なく快適だった。いろいろ知恵があるものだ。
土間にケロシンストーブを置く。飲み水用にはポリタンクを一つもらう。私はストーブの扱いが分からず夫に聞くが教えてくれない。W先生に助けを借りる。昼食は隣のママの作ったウガリ(トウモロコシの粉を火にかけお湯とこねたもの)と鶏肉をカランガ油(ピーナッツ油)で炒め、ピリピリ(トウガラシ)を入れたものを食べさせてもらう。美味しい。
一度アルーシャで食パンを買った。マンゴーラで食べようと楽しみにしていたが、家に着いたらもうレンガと同じように硬くなっていた。経験しないと分からないことだらけだ。
翌日一人の青年がママ(私のこと)にと言って生きたニワトリを一羽プレゼントしてくれた。やっとの思いで押さえながら「どうするの?」と夫に聞くと、近くのムゼー(老人)の所に行き「チンジャ」と言えというので、その通りにした。チンジャとはスワヒリ語で「殺す」という意で、殺す動物の命を祈りと共に神に捧げる儀式である。イスラムの人の手によらないとここの人は食べないとのことだった。夫に教えてもらったスワヒリ語は「おはよう」と二十までの数字とこの言葉だけだった。
夕方、米を研ごうと壁に向かい、思わず手をのばし水道を捻る仕ぐさをしている自分にハッとした。習慣とはすごい。思わず一人笑いをしてしまった。研ぎ水はバケツにとっておき、食器を洗うのに使う。台所といってもストーブ一つと鍋、フライパン、包丁とまな板、お玉、フライヤーだけ。こんなシンプルな生活は初めてだが、これでも用が足りることに驚く。
三日目にシャバンニという運転手を夫は雇い、もう一人ギニャメーダという青年が来た。彼は第一回調査の時、夫が費用を出して小学、中学に行かせ、学校から帰るとボーイとして使っていた青年だ。彼は地元のダトーガ族の一人である。
水はチャムチャム(泉)まで汲みに行った。そこへは車で十五分足らず。水を汲むのは女性の仕事なのである。暑い中、女性はひょうたんや鍋に水を汲んで頭にのせ、家まで運ぶのである。これも大変な仕事だ。私はポリタンク三個に汲んで車に運ぶ。一人で来られるのに一ヶ月近くかかった。と言うのは道というものが無く、目標になる物がないので、三百六十度同じ風景で迷ってしまうからだ。
夫と二人で村を車で走っていたある日、泉を見つけた。夫はここで身体を洗ったらと言うので、水は澄んでいなかったが、嬉しくて一糸まとわず飛び込んだ。その気分爽快なことといったら忘れられない。夫は「君は青年の様な体をしているね」と言った。映画の中で、砂漠にオアシスを見つけたラクダやウシや人間が狂喜する気持ちがよく分かった。
水のきれいな所があると水浴したが、他に人がいる時は、私は洋服を着たまま川に入り、中で体を洗う。そのまま川から出て十五分もするとすっかり乾いてしまうのである。こういう時は気分も自由になる。
村の人の主食はウガリだが、夫はご飯が良いというのでカレーライスやチャーハンとかを作る。朝は牛乳をもらいミルクティーである。野菜は手に入らず困ったが、玉葱はこの土地の唯一の換金作物で豊富にあり、小さくて紫色をしていてとても美味しい。肉も普段は手に入らない。トリやヤギの肉は特別の時にだけ買う。それでコンビーフなどの缶詰を買い置きしておく。村には小さな店があり、トウモロコシの粉、砂糖、紅茶、油など最低の必需品は置いてある。
夫と私は食事の時以外、殆ど会うことが無かった。彼は仕事で出かける。そこで私は近所の少女たちと友達になった。彼女たちは私の髪の毛に触って、真っ直ぐだと言って不思議がっていた。また私を十五歳かと言うので、どうしてと聞くと、お乳が小さいと言うのだった。私は二十八歳だった。彼女たちはふくよかである。特にズーラという子と仲良しになり、あちこちと散歩をし、その子と話すことで言葉を憶えていった。単語を憶えておいて家に帰って単語帳を調べ、記しをつける。村はずれの粗末なイスラムの教会でその独特のお辞儀の仕方まで教えてくれた。本当に村の人々は善良で、親切だった。
5 サファリ
一ヶ月にもなると太陽の位置から時間が分かるようになり、楽しみがふえた。夕日。果てしない大地と空の間に、大きな赤い太陽が沈んで行く。自然の凄さ、大いなるカを感じる。三ヶ月もすると簡単な会話が出来て、夫が仕事で車を使わない時は、シャバンニとドライブに出かける。動物を見に行ったり、オルドヴァイ遺跡にも出かけた。この峡谷はヴィクトリア湖とキリマンジャロ火山の間を走る大地溝帯中にあり、百メートル余りの深さである。ここで一九五九年リーキー夫妻の手でアオストラピテクス(ジンジャントロプス・ボーセイ)の人骨が発見された。その他、居住面の遺跡や化石動物群も多く出土されている。一八〇万年前の人類の発祥地と思うと、現在の人類になるまで長いのか短いのか、感無量である。
夫が一度だけオルデアニに出た時、珍しくンゴロンゴロに行こうかと言った。ここから二十五分位で行ける。この保護区は非常に大きく、そのクレーターの直径は二十二キロメートルもある。タンザニア一の自然保護区である。私達は日帰り見学である。クレーターの周りにはユーホロビアの木が所々茂っている。動物も豊富でシマウマは数知れず、ライオンの家族づれ、象も、キリンも、ディクディク、トムソンガゼル、ハイエナ等を見た。大自然の中で人間は本当に小さな存在だという感じがする。
象と言えば、私達がウサ・リバーに滞在した時、工事で近くのアルーシャ・ナショナルパークに行った帰り道、象の家族が川に水を飲みに行くのに遭遇してしまった。夕方だったので五メートル位の近くで気づき、急いで車を止めライトを消す。リーダー格の大きな象が耳をバタバタさせ吠える。子象たちを進ませ、その象が残り、木をバリバリと折って威嚇する。もう心臓は止まりそうで、思わず神様、助けてと祈った。やっと暗闇が静かになり、エンジンをかけて走り去った。家に戻ると腰が抜けたようになった。後で二日前にドイツ人が象に踏み殺されたと聞き、あぁ、運が良かったと思った。
6 友人ママ・ラマダーニ
二度目に変った家の家主ムゼー・ラマダーニは、別の土地に二人奥さんがいるのでたまにこの土地に来る。ママ・ラマダーニと親しくなり行き来する。毎朝の牛乳をもらう。ウガリの作り方や乳絞りを習い、ヒツジの皮をなめして干し、スカートにするのを見せてもらう。彼女はウンブルー族の人で、体格もよく、褐色の肌のきれいなモダーンな人だった。このママはミシンを持っていて自分の洋服を縫っている。この村のムブルーの女性は大体洋服を着ていて、おしゃれをする時はカンガという布を身につける。男性はシャツとパンツをはいている。
ウンブルー族は農耕の人である。一度近くのママの畑を耕すのを手伝ったが、こんなカラカラの土にトウモロコシを植えても、申しわけ程度のものしか出来ない。泉から潅漑用の水を引いているが、その周囲には木もあり、野菜の青物も見えるが、離れた所ではどうしようもない。またこの用水の赤く濁った上澄みを炊事に使うが、よく病気にならないと思う。私たちには考えられないことだ。こんな奥地まで何とかきれいな水を引けないのだろうか。私たちもこういう人たちのことを頭に入れておかないといけないと思う。
7 ダトーガ族の人
私は言葉を知らないので夫の研究対象のダトーガ遊牧民とはあまり話すことは無かったが、若い人たちはスワヒリ語を話す。何人かの男性、女性とは挨拶程度の言葉をかわした。重要なことはダトーガ族は無文字社会だということである。男性は槍と杖を持ち、民族衣装の黒いゴロレを着て牛を追い、一日何十キロも歩く。女性が三人会いに来てくれた。その一人が夫の論文「一枚のスカート」に出てくるバッピアイだった。彼女たちは洋服は着ず、皮のスカートに真鎗の首輪、ブレスレット、アンクレット、ビーズの首飾りをしている。スカートにはビーズの刺繍がしてあり、大変おしゃれである。顔はナイル型の系統なので細面で、少々きつい感じで、体は細身、背が高い。黒いゴロレを羽織っていた。娘の場合は下に何もつけておらず、既婚女性はスカートをはいている。
ダトーガ族の長老ギダ・バシケーダと一度彼の家で会った。彼は大きなお腹をして太った老人でみるからに長老という感じだ。奥さんがひょうたんの器で牛乳を出してくれた。彼の息子のエロが私を「ガッタメラダ」と呼んだ。夫はそれは尊称だと教えてくれた。
ダトーガはイバラのある枝で作った大きな垣根のあるゲーダと呼ばれる屋敷を持ち、その中に人間のための家屋と家畜の寝場所を作り、住んでいる。その中には何人かの妻たちの家屋もある。家は人が腰をかがめて入れる高さである。骨組みは木を並べて立て、木と木は、木の皮でしばり、壁はウシの糞と土を混ぜた塊を木と木の間に叩き込み、外から押し付ける。臭いはすぐ乾燥するので飛んでしまう。牧畜部族は家畜を大切にし、特にウシの肉は食べない。ウシは貴重な財産なのである。儀礼の際や特別の時にのみ、ウシやヒツジ、ヤギを殺す。食生活はウシの乳が中心だが、トウモロコシやイモを食べている。朝晩二回食事をし、青年たちは一回八合位の牛乳を飲む。
ある夜、ダトーガのダンスがあると娘の一人に誘われて二十五分程、夜道を歩いた。黒いゴロレを着た痩身で背が高く、脚の長い青年たちが槍を片手に声を出しながらジャンプをしている。その身体は一種異様な美しさがある。サバンナでの戦士たちの精悍な姿は、いつまで持続されるであろうかとふと思った。
朝六時ごろ目をさまして上体を起こすと、窓からダトーガの老人がのぞいていることが何回かあり、ぎょっとしてしまう。ドクターは起きたかとやって来て、大体薬を欲しがるのだ。もうこの年なので書いても良いだろう。ある日、水汲みの帰り、老人に途中まで乗せて欲しいとたのまれた。後ろの荷台に乗せる。「止めて」という声でとまり、後ろにまわった。ゴロレ一枚はおっているだけで、足をひろげていたので、あの部分が目に入った。夫に話すと、「外国人の女性で初めてだろうな」と言っていた。
ある日、夫に「ダトーガの宗教は?」と聞いたら、「あんた、バカでもないんだな」と言い、「う−ん、僕もよく分からないが、太陽と自然だろう」と答えていた。他に一つ疑問があったのに、夫に聞き忘れていたことがあった。それはマンゴーラでは素焼の土器を見なかったことである。ダトーガ族は牧畜民なので、無いのは理解出来るが、農耕民のウンブルー族の家で見かけなかったのは何故かということである。
8 サバンナにて
ある日、夫とW先生と三人でオルデアニまで用事で出かける。帰りにオープンカーのランドロバーでサバンナの風を切り走りながら「星めぐりの歌」をうたった。
あかいめだまのさそり
ひろげた鷲のつばさ
あおいめだまの子いぬ
ひかりの蛇のとぐろ
オリオンは高くうたい
つゆとしもをおとす (宮沢賢治)
なんともロマンチックな気分だった。
これよりロマンチックだったのは、どこからどう歩いたのか憶えていないのだが、ここはセレンゲッティだと言われたのは忘れない。
キーランドさん、Wさん、夫、シャバンニと五人で歩いていた。あの有名な国立公園の一部にいるのだ。それは美しい星が降るような夜空で明るくて電灯なしで歩けるのである。私は「こんな所でキャンプをしたい」と言って笑われた。こんな場所にいると精神が自由になる。途中かなり深い掘割があった。幅一メートル以上もあり、細い丸太が一本渡してあった。三人はさっさと渡り進んで行く。私は丸太は滑りそうでこわくてためらっていた。シャバンニだけが見ていた。そこで私は助走をつけて跳んだ。それにしてもあの三人はなんという人たちなのだ。夫はこれが他の女性ならきっと助けるに違いないと思った。
その夜は村はずれの小屋に着いた。それは収容所という感じで、板の高い台が十二個位並んでいるだけだった。それでもやっと五人分あいていた。女性は私一人。そのままの姿で横になる。幸いすぐ寝付いた。翌日どうやって町に着いたのか覚えが無い。
乾期は川の水が少なくスムーズに車が渡れるが、雨期には増水して立ち往生となる。水が引くまで一日でも二日でも待たないと家に帰れない。そういう時は、オルデアニのインド人の店のざこ寝ホテルに泊まるのである。私は一度そうした目にあった。この時期一番悩まされるのは蚊である。夕方には蚊柱が立つのである。蚊取り線香は必需品で、蚊帳があるともっと良い。
雨期、家の中では、スコールのように降る雨は、土間をざぁ−っと流れる。良くしたもので、生活の知恵で少し斜めになっていて、土間に水が残らないようになっているので感心したのを忘れない。
五ヶ月目位にアルーシャに車の点検などの用事で出る。ついでにお風呂に入りたいと夫に言うと君だけ泊まれと言い、一人でニューアルーシャホテルにとまった。一泊六十二シル(三千百円)だった。高いのだが熱いお風呂に入ると「極楽」だと言いたくなる。あとはアフリカンホテルに変る。五日いる間に運転手と二人でモシに行き、キリマンジャロ登山口の一合目のマンダラハットまで散歩した。ここで二千七百メートルある。エーデルワイスの花束を買う。二シル(百円)だった。下山するヨーロッパの人たちに出会う。
五ヶ月目、遂に日本食がなつかしくなり、妹に頼み、わかめ、とろろ昆布、お茶、みそ、梅干、おかきなどを送ってもらった。
マンゴーラで青年とほかの村に向かう途中、素晴しい発見をした。踏みつけそうになった足元にあのアフリカスミレが一株咲いていた。これがセントポーリアの原種なのかと、こんな荒地に咲く生命力に驚嘆した。それは色あせて、みすぼらしく咲いていていじらしく感じた。
エヤシ湖の近くの岩山に古い壁画があるというので、炎天の中、夫と二、三人で見に行く。エヤシ湖はマンゴーラから三十分足らずのイシミジェーガという地区にあり、湖は塩湖である。その山の洞穴に確かに壁画が残っていた。赤茶色で動物の絵が描かれていた。何百年か前、ハザッピ族かブッシュマンか誰が描いたのか未だはっきりしていないようだ。壁画はシンギダにあるものの方が有名だそうだ。
恐ろしい思いもした。アフリカの道は怖い。二人で他の村に移動中、急な坂道を登ると急カーブがあり曲がりきれず土手に乗り上げ、あわや飛び越えて落ちるかと思ったとき、ハンドルがもどり横転しそうになりながら何とか無事に元に戻ったことがあった。心臓が止まる思いをした。死なずにすんだことを感謝した。また雨にぬれた赤土のツルツルすべる道路も非常に危険である。
マンゴーラ滞在も七ヶ月になり持参したドルも少なくなった。当時は一人一回五百ドルと制限があった。私は足りなくなり五ヶ月目に親に送金を頼んだ始末だった。どうしてこんなにお金を使ったのか分からない。ガソリンに費用がかかったのか。それに缶詰類が高価だったのか。私たちは村の人と同じような物を食べていたのならよかったのかと思う。いずれにしろ私一人帰国することにした。私たちの会計は別々で私は自費、夫は公費である。夫に頼まれた資料のタイプもし終え二月中旬、運転手のシャバンニと一日がかりでナイロビに向かい夕方着く。翌朝飛行場まで送ってもらったが彼は飛行機を初めて見て仰天していた。これが空を飛ぶのか、日本まで何日かかるか聞いていた。彼は寡黙でおとなしい男性だった。その顔が今でも目に浮かぶ。私は再び来られるかどうか分からない名残惜しい気持ちで一九六八年二月十八日機上の人となった。
9 はるかに想う
この数年来、病気がちで気が弱くなったのだろうか。しきりにマンゴーラの事々を懐かしむ毎日である。四十年も前のことを断片的だが思い出してみた。当時のマンゴーラの人口は二千人だったが、最近は玉葱の栽培が成功し、商売が繁盛して人口が増え、二万人余りにもなって、全く昔の面影は無いと聞いている。だが変っていないものもある。心だ。それは夫の死を知った時、ママ・ラマダーニが私を心配してくれた手紙の内容だ。元気をなくしていた時だけに彼女の優しさにとても感激した。時々あのズーラは今どんな生活をし、どんな人と結婚しているのだろうかと思う。そうだ、一度ママに手紙で聞いてみよう。ギニャメーダは音信不通だが、高校を出て獣医になつたと聞いている。非常に傷ましい出来事は、後年キーランドさんが養蜂指導のためタイに滞在中、使用人に殺害されたというニュースであった。
夫は亡くなる二ヶ月ほど前に突然、「おい、マンゴーラに行こうか」と私に言った。それから一息ついて、自分はギダ・バシケーダと約束をしたことがあると次のことを語った。
ギダ・バシケーダとの別れの時、「わたしはドクターより先に死ぬだろう。ドクターが日本で死んだら、ドクターの体の一部でよいから、わたしのブゲーダ(墓)のそばに埋めて欲しい。わたしはそうなるまであの世へ旅立ちをしないで待っている。このわたしの願いを果たしてほしい。マンゴーラでドクターの来るのを待っている。」と。
その親友だったダトーガ族の長老ギダ・バシケーダも一昔前に亡くなっている。そこで私は夫の死後マンゴーラに出かける言語学者のH夫妻に夫の骨の一片をカバ桜の茶づつに入れて託して、バシケーダの墓の近くに埋めて、「弥栄」(いやさか)の文字と名前を私が書き、それを彫った記念の石板を置いてもらった。夫はライフワークだったアフリカのダトーガの友人と共にいつまでも安らかに眠っていることだろう。
マンゴーラから夫が日本の友人たちに送る年賀状をタイプしたダトーガ族の言い伝えのことばで結びたい。ダトーガ語は残念ながら忘れたので、日本語訳を書く。
「山と山とはめぐりあわないが、人と人とはめぐりあう」
平成十五年九月二十九日
付記
- 今まで夫に「君はアフリカのことを語る資格はないのだから、人には知ったようなことを話したらいかんぞ」と言われてきましたので、親にも友人たちにも殆どタンザニアの経験のことを話したことはありませんでした。ここで自分の記録のためにもと思い出を書きました。
- 夫の研究地のタンザニアに同行したいと願った私に亡き父大木昇一郎は私の費用を援助してくれた。そのお陰で貴重な体験が出来たことを心から感謝している。また私の同行に同意してくれた亡夫にも感謝している。
- この一文は言葉も知らず、アフリカについての予備知識なしの全く白紙の状態で出かけた体験の思い出です。その滞在中はサバンナの中に、ただ自然の中に身をおいていただけである。その間、思い起こしても願望というものとは無縁であったということである。
- 冨田浩造さんに数箇所ご教示いただき、ありがとうございました。
- ダトーガ語の言い伝えは富川盛道著「理想」の中の「サバンナの世界」に掲載されたもので、ここに記します。「marondoschi
gijega ne, buneda gwarondoschi」である。ダトーガ族には文字がなく、口承によるものです。
参考書
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