六月中旬のこと。二三日前から胸が重苦しく、動悸がはげしい。いつもと違うと思い午後、赤坂関口クリニックに行く。S医師にその症状を話すとそれはおかしい、一度このさい女子医大で精密検査をしましょうとおっしゃる。私は病院に行くとカテーテル検査をされるのがいやで、としぶった。S医師は今痛くない冠動脈CTというのがあるからと説得された。そして救急車を頼むから待つように言われた。S医師はすぐ女子医大のCCUに電話して、患者を送りますが冠動脈CTその他必要な検査をしてください、そして心電図で何も出なくても帰さないできちんと検査をするよう頼んでくれた。「川に釣りに行って魚が釣れないからといって、その川に魚はいないと決めることは出来ない」というのがS医師の持論である。 そして救急車に乗る。初めてのことで緊張する。窓がなく圧迫感がある。血圧と酸素を測る。十分位で病院に着く。手配が出来ていてすぐCCUに運ばれる。着の身着のままなので上だけ検査着に変えられる。心電図は異常なし。超音波の検査が丁寧に行われる。すると担当医は「富川さん、心臓はちゃんと動いてますよ」といわれ救急車で来たのに何だか恐縮気味になる。だが点滴をされて、一般病棟が空いていないのでCCUで一晩過ごした。トイレには点滴を引いて通うことになる。横の患者は男性で重症らしい。トイレもベッドの横でしていて臭いがひどく、夕食はとれなかった。看護師さんがきて病歴、飲んでいる薬の名前、家族構成などの聞き取りがあった。身内も病院にいることは知らないので先生が電話で伝えてくれた。 翌朝、弟夫婦が衣類など一式持ってきてくれて入院手続きをしてくれる。人間一人ではこうゆう場合があるので生きられないとつくづく思った。昼過ぎ三階の一般病棟に移ることが出来た。二人部屋。病室はリフォームがしてあり壁に汚れもなく、荷物入れもあり快適。勿論エアコンはある。担当医は二人で女医のI先生とS先生である。しばらくしてS先生が、S医師からの依頼の検査は四日後に取れましたとの知らせ。S医師は東京女子医科大学心研から信州大学内科教授に転任、退官された方である。S医師とのお付き合いは夫が急性心筋梗塞の治療を近所の病院で受けたあと、カテーテル検査が必要で昭和五十三年七月に診察して頂いて以来、亡くなるまでの三十年間主治医をしていただいていた。S医師は心臓内科の第一人者である。私は平成十一年鵠沼で軽い脳梗塞を起こし退院一ヶ月後、心臓の激しい発作があった。それは恰も悪魔の伸びた爪で心臓をえぐりとられているような苦しさで病院にも行かれなかった。東京に移って平成十四年一月にS医師を頼ってクリニックに行った。初診のときその話をすると「それは狭心症です」と診断された。以来へルベッサーR100を処方されている。「この薬は一生飲み続けなければなりません」と言われ、ニトロベンも勿論一緒にいただいた。 私は検査まで特に治療はなく現在服用している薬をきちんと飲み、六時に採血と検温があるだけ。だが自由に歩き回る許可は出ない。窓際のベッドから目の前に見えるガラス張りのきれいな建物に興味があり早くそこに行きたくてしょうがなかった。 いよいよ冠動脈CTの検査。これは食事の制限はなかった。看護ヘルパーさんが車椅子で連れて行ってくれた。地下の検査センターは新しく出来たものらしい。昔はなかった。検査着は今は紙製で、必要なところを手で千切れるようになっている。CT室は大きく、これまたピカピカの器械が眼に入る。ガラス越しの「操作室。台に寝て右手を上に伸ばす。三人の看護師さんが左手は血圧計、心電図、右手に造影剤を注入する注射の準備とそれぞれ作業する。すると操作室から息を整えてと声が入る。それから二十秒息を止める練習をした。本番では三十秒息を止めていないと撮影が出来ませんから我慢してくださいと念を押される。看護師さんたちは急いでガラス室に入る。撮影と同時に造影剤が注入されて体が熱くなる。一回で無事終わる。しかしこれは年をとった人や呼吸器の弱い人は無理だと思った。 部屋に戻り、この二年前に導入された立派なアメリカ製の器械をみて、急に検査費が気になった。看護師さんに医事課に検査費がどれくらいか聞いてくださいと頼んだ。間もなくもどってきて、「保険扱いになっているので八千円くらいのようです」との返事で安心した。夫が二度も入院していた頃は看護婦さんが不親切でなかなか用事を頼めなかった。今回はまったく感じがよく、ほとんどの人は若く明るく親切だったので気持ちがよかった。病院でもこんなふうに方針が変えられていたのだ。 ずっとシャワーが許可にならず、清拭が二回、シャンプーを一回してくれた。なにしろテレビはあるが退屈で仕方がない。窓から眺めるモダンな外来センターに興味津々である。が、まだ心臓病センター内以外は歩行が禁止されている。一階の売店にはボランティアーの人に一日一回ペットボトルの水を買いにいってもらった。次に食事がなんともつらい。千七百キロカロリーでおかずが三品つくが量が少なくご飯が多いので食べきるのはつらい。家にいてもこれくらいのカロリーのはずであるが、寝ているだけなのにとてもお腹がすくのがおかしい。同室の七十五歳の方は血糖値のコントロールをしていて、これからペースメーカーをいれるので一ヶ月近い入院。入院前にお寿司と中華料理を食べておいてよかったと話していた。 CT検査の翌日の夕方、I先生がCTの写真を持ってきて見せてくれた。「きれいですね」と思わず私は言った。立体的にくっきり動脈が写っている。驚嘆した。先生も「狭窄はありません。一応問題なし」と言い、「次は負荷をかけてトレッドミルをしましょう」と言って部屋を去る。しばらくして看護師さんがきて「富川さん、一階まで行っていいですよ」と許可がでる。うれしくてまず売店でジュース類と新聞を買った。そしてすぐ外来センターに入ってみた。そこはまるで小規模な総合ショッピングセンターのようだ。真ん中にエスカレーターがあり、右側には案内、受付、予約センター、会計、幾つかの科、左手には売店とからだの情報館があり、そこでは簡単な病気のことについての資料や本がある。二階右手に各科があり、左手は松本楼である。エレベーターはシースルーで建物は五階建である。 二日後トレッドミルの検査は午後のため、昼食はぬきになる。先生と技師が、胸や頭が痛くなったらすぐ知らせてくださいと言い、徐々にスピードを上げてゆく。息が苦しくなるまでして、少し胸が重くなったが痛みはなかった。終わって先生は特に異常はないようです。多分胸の痛みは神経性では、とほのめかす。しかし私はふだん三、四十分も歩くと胸痛があり立ち止まって休むし、駅のホームを歩いて乗り換えの階段を上るときも胸痛があり、朝方に圧痛がたまにあるのだから納得がゆかない。何はともあれ軽度であることがわかり安心できたことはうれしい。 その日の夕方、S医師がわざわざお見舞いに訪ねてくださった。恐縮する。S医師はベージュの夏用のハンチングをかぶっていらして、ハンチング党だった夫を思い出した。今までの経過をお話しする。「先生、私は本当に心臓が悪いのでしょうか」とたずねた。「そうですよ。あなたのは冠攣縮(れんしゅく)性狭心症でしょう」とのお答え。そして「折角入院しているのだからへルべッサーをやめて検査しないと何もならない。痛くならない薬を飲んで検査していたら症状は起こらないですよ」とおっしゃる。「しかしあなたは何か気になることでもありますか」とたずねられたので、私は「このところ調べるものがあるのですが、進まないのです」と答えると「それだ。それで原因が分かった。あなたも何か根をつめてしないことですね」と釘をさされた。冠攣縮性とは心臓の冠動脈は括約筋で心臓が攣縮して動悸がするのだとの説明があった。お帰りのときナースステーションでS医師は担当医からCT写真を見せてもらい、きれいだがこの患者は冠攣縮性狭心症ですよ。あなたは習いましたか、とたずねると担当医は首をふっていた。今はこういう基本的なことを教えないのでしょうか、とS医師はつぶやいていた。S医師は心電図と聴診器でどんな心臓病かを診断できる名医である。担当医のI先生は卒業して三年目の研修医である。やはり大ベテラン医との違いを感じた。S医師は、後日今はデジカメが流行のように、手動のカメラは敬遠されるのと同じなのですといわれた。つまり問診などを省略してすぐに機械の検査が行われるということなのである。因みに狭心症は七十%が男性で、三十%が女性だそうだ。 こうして十四日から二十三日までの入院生活を終えた。帰宅した部屋のドアを開け「ただ今」というと錦花鳥のるるべぇは「チッ、チッ」と答えてくれ、ほっとした。すぐに好物のおそばをゆでて食べ、夕食はお寿司を食べに出た。これで一先ず食べ物の不満は落ち着いた。三日もすると、何だか頭がボッとして胸に重みを感じるようになった。それに血圧は降圧剤を飲んではいたが入院時は一一〇から一二〇だったのに一四五から五十になっている。一体どうしたのだろう。家に戻り茄子の浅漬けをむやみに食べたせいもあるが、何と言っても机の上に図書館から借りている琉球関係の数冊の本がいつまでも読み進まず置いてあるのに気づいた。緑内障ですぐ眠が痛み読書が困難である。それでいらいらしてはいた。家の中にストレスの要因があったのだ。『ストレスとつきあう法』からストレス研究家ラザラスの考え方を引用すると「ストレスとは、何らかの要求を処理しようとするときに生じる広い範囲の問題のことである」としている。ある雑誌によると「適度なストレスはほどよい緊張感をもたらし、エネルギーを生み出す」とある。入院中テレビはあったが、不思議に考え事も起きなかったし、ただぼっとしているだけの別世界であった。最も私のいたところは環境療養型病棟という名がついていたのだからストレスとは無縁でいられたのだろう。 平成十七年八月