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西アフリカ・カメルーン点描


  1 パリ

 一九八〇年七月、夫のカメルーンの学術調査に同行するためパリに行く。日本に大使館がないのでパリかロンドンかでビザを取得しなくてはならない。私はこのために三十五歳で二年フランス語を学んだ。が、言葉は素直に出てこない。私は夫の荷物持ち兼雑用係である。一日目はカルチェラタンの安いホテルで、朝、食堂に降りたらもうパンはなくなっていた。中年は私たちだけで、皆若者だった。
 留学中の嶋田さんと領事館に出かける。カメルーンの人たちが殆どでずっと並んでいる。その日は場所の確認と書類をもらった。翌日朝また行く。口もきかない、いばった女性の係官が印を押す。
 この日からホテルを変える。出来るだけフランス語をしゃべることにする。ここは本で見たホテル・トロイヨンという民宿に変える。三部屋しかなく、風呂付は一部屋だけで、そこにした。一泊四千円位だった。掃除にアフリカ人女性が来るだけ。簡単な用事はフランス語で用を足せた。喜びがわく。近くに中華料理屋があり便利だった。カルチェラタンのスパゲッチトマトソースは非常に美味しかった。だが外食は高くて気が気でない。モンマルトルは各国のレストランがあり楽しい。夫は名所観光をしないので、町をぶらぶらするだけだった。私は結婚前に一度名所を観光したことがある。そうだと思い、一日シャルトルに電車で行き、有名な聖堂を訪れた。駅のそばのレストランでクスクスを初めて食べた。


  2 カメルーンの首都ヤウンデの町

 首都ヤウンデの町に入る。安いアンペリアル・ホテルに入る。ここはパンとコーヒーの朝食、だがマンゴーが美味であった。
 それほど暑くはないが、時々スコールにみまわれる。ホテルのタオルはいつも湿っている。
 この町ではタクシーが相乗りで、同じ方向に行く人を探す。そして料金を決める。合理的だと思う。車は日本製だが、みながたがたの代物。私は何とすらすらと料金の交渉が出来たのである。楽しいことだ。夫は少し驚いていた。
 夫の訪ねる役所をタクシーで探しに探して行ったが、担当者は留守で会えない。アフリカは電話は役に立たないので、顔を合わせなくては事が運ばないとのことである。町の人が電話をかけるときは、郵便局かホテルで根気よく待ち、かけてもらう。
 町はすり鉢状の底にあたる所が中心になっていて、そこから放射線状に道が伸びている。それが坂道になるので歩くのが疲れる。メインロードは舗装になっているが、殆どは未舗装であるし、信号がないので、渡るのが危険である。
 町の中心にラ・テラスというカフェレストランがあり、そこで食事をしたり、スーパーでハムやパンを買い部屋で食べたりする。屋外テラスでコーヒーを飲みながら過ごすのは、パリと同じである。レストランではずっとサッカーのビデオをながしていた。


  3 バメンダの町

 カメルーンの北西部で一番大きな町のバメンダは割合涼しく、過ごしやすい気候だった。中級のホテルに入る。ここは英語が通じる。カメルーンでもフランス語地域と英語地域があるのを知った。町の人が話しているのを聞くと純粋の英語ではない。ピジン・イングリシュというのを初めて聞いた。これは何ともむずかしいと感じた。
 アフリカは殆ど電話が用をなさない代わり、口伝ての早いのに驚く。いつの間にか夫の知り合いの青年夫婦が挨拶に来た。土産がないので、夫は私の履いている新しいズックを奥さんに上げてくれと言うので、ゴム草履にはきかえる。現金をあげれば良いのに、マンゴーラでも絶対それはしなかった。私は靴を探して買うことになった。
 マーケットにはずらりときれいな模様の布地がかかっている店が並んでいる。私は一枚買い、二日で縫ってもらった。サイザル麻の手提げも色々並んでいる。大きいのを一つ買う。
 日曜日に二人でラグビー見物に行く。小さいスタジアムだが観衆は一杯で、皆静かに見ている。ここは別段特徴のある町ではない。食事も美味しかったという記憶はない。

 タクシーで町外れに住むグム牧師の家を訪ねる。しばらく待って牧師が昼食にもどる。なぜか不機嫌だった。昼食に出されたうずら豆の煮物は、日本の味と全く同じで、何だか田舎の家に寄ったという感じだった。


  4 カメルーンのオク村

 一九八二年十一月のある日。夫の学術調査に同行し、西アフリカのカメルーンに滞在していた。その日はそれ程暑くなく過ごしやすい日だった。朝九時半、バメンダのステーションという各方面行きのバス乗り場に行く。オク行きのバスに乗るが満席になるまで出発しない。ここから二時間平坦な道を走る。周りはまばらに木がある以外は草もなく、むきだしの地面。終点には小さな店があるだけだった。
 夫が店の主人と話している間、私は店先に座りこんでいる中年の女の人に話しかけた。みすぼらしいと言える服装である。片言の英語が通じる。そして、「わたしはプリンセスだ」と言うので、少し頭がおかしいのかと思った。私の想像するプリンセスとは全く異なる。聞けば彼女の夫は警察官で今出張中なので、実家に来たと言うのである。
 三十分もすると、夫の知り合いの青年が現れた。私たちはオク語は全く分からない。彼は簡単な英語が分かる。夫と話をして出かける。少し待つと、青年は大きな蜂蜜酒の樽を担いできた。そして例の女性と四人でフォン(王様)と呼ばれる人に挨拶に行くことになった。どんなきれいな家かと思い着いてみると、簡単な集会所の中で待つように言われる。しばし待つとフォンが現れた。期待はずれの小柄でみすぽらしいレインコートを着た老人だった。私たちは膝をかがめて、頭を下げて挨拶した。その青年が通訳した。外国人は一応挨拶に来なくてはいけないことになっている。外に出てから、女性にフォンはあなたのことが分かったのかと聞いてみた。憶えていないと言われたとの事。「子供が二十人もいるから無理でしょう」と当然という風に言っていた。「えっ」と私は驚くが、一夫多妻だから、まあ、そうなのかと理解できた。フォンは夫に今度来る時は暖かいセーターを持ってきて欲しいと言ったそうだ。村の小さな木彫りの仮面を収納している所では、お金を払うからカメラを買ってきて欲しいと夫に言われた。
 マンゴーラでは長年過ごしたが、夫は極力物を与えるのをさけていた。が、ダトーガのバシケーダや親しい者に頼まれ何回か腕時計を買って行った。それも皆バンドが金色のものを欲しがると言っていた。また二回程ラジカセを持って行った。こういうことは仕方のないことだろう。
 その夜、泊まった所は山谷の宿泊所はこんなかと思うような所だった。トイレは殆ど平らな大きな丸いところに、真ん中に小さい穴があるだけだった。その不潔さにぞっとしたが、どうしようもない。トイレでもサバンナの地域とは雲泥の差である。ここには二日と滞在できない。
 翌朝、市がたち、見に行くと意外に沢山の品物が並んでいる。そのあと、女性と一緒に村を歩き回った。午後は祭りがあった。時々雨が降り、道はぬかるみ、苦労した。木で作った大きな黒い動物の仮面をかぶった男性たちが村を歩く。この村の民俗音楽のグループは有名で、一度日本に来たことがあるとのことだった。村の広場で村人が集まっていた。何をしていたのか良く憶えていない。村の婦人たちはおしゃれをして、首にトンボ玉のネックレスをしていたので、目を見はった。こんな村の人たちには不釣合いと思った。トンボ玉は高価な品だし、とても興味を持った。話を聞き損ねたが、物々交換をしたらしいのだ。一軒の女性の家に行く。女性四人がいて、食事をしていた。肉の燻製を出されたがあまりに臭くて、食べられなかった。写真をとっても良いかと聞くと、「早く死ぬから駄目」と言われた。昔の日本でもそうだった。現地の言葉が話せないのはつらいことだ。
 たった一泊の滞在だった。
 午後のバスで村を離れる。途中のクンボで降りる。ここのホテルはまあ清潔だった。ここの小さいロビーにかけてある木彫りを見て、驚嘆した。非常に精密で、一級の美術品と言えるものだった。ぜひ一点譲ってほしいと頼んだが、絶対駄目と言われた。山の奥に住む老人が彫っていて、一年に一度持ってくると言うのだ。それは見事なものだった。今でも目に焼きついている。


  5 ガルア

 ガルアはマルアの下のカメルーンの北部にある。軽飛行機でバフッサム経由で入る。空港は小さいコンクリート造りの大きな小屋という感じ。家屋を出て、タクシーもない。一人の白いイスラムの服装の紳士が立っていた。夫は私に「エルドリッジ・モハマドウを訪ねたいのだが、知っているか、聞いて来い」と言う。尋ねると、知っているとうなずいて、すぐ自分の運転手に合図して、その車に乗せてくれた。
 途中は赤っぽい土で木もまばら、革も生えていない砂漠の町。日干しレンガ造りの小さな家が点在している。気温は四十度の上はある。モハマドウのオフィスに着くが不在である。お水もなく、食べる所もない。
 三十分もすると彼は来て、夫と話している間、外にも出られずただ部屋の隅で待っていた。彼は歴史学者である。何だかとても忙しいそうである。夕食を叔母さんの家でしてくださいと案内してくれて、彼は用事があるといって出かける。家に入って驚愕した。そこは外とは別天地である。まるで宮殿に来たようであった。照明は眩いくらいで、エアコンはきいて寒いくらいである。ヨーロッパ風のダイニングルームである。ご夫婦は不在で、三人の小さなフランス人形のようなお嬢さんが私たちの相手をしてくれる。おいしいご馳走が四種類でた。ここのご主人は貿易商らしい。外側からは想像できない生活をしているお金持ちがいる。
 泊まる所は、モハマドウが用意してくれた。六畳位の部屋にベッドが二つとシャワーがあるだけである。これで十分であるが、ベッドは熱くて寝られない状態である。外は風もない。ここはマンゴーラよりはるかに、はるかに厳しい風土である。
 翌朝は近くの老人が一口の朝食を作ってくれたが、何を食べたか記憶が無い。水もなく脱水状態である。私はこういう場所では生きられないと思った。モハマドウが空港まで送ってくれて別れた。
                             平成十五年十二月

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