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あぁ、愛しのバッポ


バッポ 「バッポ」とは、私が実の娘のように愛し、彼女も私に親愛の情を示してくれ、十四年間も私の心を癒し、活力を与えてくれた愛犬の名です。
 東京の洗足から北鎌倉の山あいの明月谷(めいげつやつ)に移って一年がたった昭和六十二年の九月。夫は外国に出掛け一人ぽっちだったのと、周囲の静けさに耐えられず、急に犬が欲しいという気持ちが抑えられなくなった。手紙で夫に知らせると電話がはいり「犬を飼うと、もう旅行に出られないぞ」とやんわり反対だと言われたが、私は初めて自分の意思を通すことにした。
 さてどの種類にするか、大きさは、と雑誌を調べたり、ブリーダーに尋ねたりした。そして決めたのが、キャバリア・キング・チャールズ・スパニエルだった。中型犬で白と茶の二色で目が大きく愛らしい。この種は元は狩猟犬で、丈夫で活発、陽気で性格は良いと言われている。
 生まれて三ヶ月の雌の子犬が翌年の二月に我が家に来た。私は五十歳、夫は六十三歳の時だった。居間に置いたサークルから出たり入ったりする姿、寝ころがる姿は一日中眺めても飽きなかった。食事は手づくりのものにした。一週間もすると、二階で寝ていて下階から「キューキュー」という切ない泣き声を聞くと我慢が出来ず、つい自分のベッドに入れてしまった。それは犬の思うつぽだったのだろう。その後十三年間その習慣は続いた。中野孝次氏の犬の定義「犬とは一度手に入れた権利を絶対に手離さぬ存在である」の通りである。
 良い名前が浮かばずに悩んでいたが、翌年の三月夫が帰国した翌朝、飼うことに反対していたのに朝食の時、夫は自分のガウンの懐に子犬を入れて、皿にあけたミルクティーを飲ませるのを見て、私は一安心した。名前は夫が「バッポ」とつけた。これは彼がタンザニアのマンゴーラ村にいた時世話になったオバさんの名をとったのだ。
 『犬のいる暮らし』の著者、中野孝次氏は「老いてから飼う犬の存在は、たんなるペットという以上に、忠実なる暮らしの相棒であり、話し相手であり、世話をやいてやるべき被保護者であり、そして何より安心してひたすら愛することができる対象なのである」と記しておられる。まさにその通りであった。以前、『ハラスのいた日々』を読み、その名文に涙したのであった。
 だんだんいたずらをするようになった。スリッパは何個もボロボロ。物をかくし、ソックスの引っぱりっこ、ボール投げ等をして遊ぶ。一番気に入っていたのは、ゴム製の車の型をしたもの。それを投げるとパッとくわえ「どおぉ?」と自慢げに私を見上げる。その姿の愛らしさ。その度に私は喚声をあげて、夫を驚かした。こんなに明るい気持ちになったのは何年ぶりだろう。
 夫が東京に出掛ける時は私が駅まで車で送迎したが、夫は必ずバッポを同行することを要求した。バッポはもう自分はいつも車の助手席に座るのが当然と思うようになっていた。改札口で出迎える時は姿を見つけると吠えながら飛びつき、顔をなめまくるので、夫は人前で照れていた。尾を振り、全身で喜びを表す姿には感動してしまう。

 朝の散歩は七時半ごろ私が連れて行く。夕方は夫がするようにした。夫は起きるのが十時頃なのである。夫は散歩の折、必ず喫茶店で休憩する。よく店の外につないであるのを友人が見て、またバッポちゃんが外で待っていたわよ、と伝えてくれる。そのような時はバッポは絶対吠えたりせず待っている。
 三人でする散歩は、初めは明月院から浄智寺、東慶寺あたりであったが、二年、三年と次第に遠出をするようになった。夫は心臓病をかかえていたので、用心をしながらであったが、段々積極的に歩くようになった。
 夫は研究熱心で、円覚寺の見晴茶屋で一服して裏山を廻って下りてくる素敵なルートを見つけた。六国見山にも足をのばした。また家の裏山から建長寺の半僧坊まで行き、休んで下から帰る。円覚寺の横から雲頂庵を経て、八雲神社で一休みして帰るルートという具合だ。バッポは草むらや落ち葉のある山道は嬉々として先頭に立って得意げに進む。片道一時間半はかかるのが私たちの散歩なのだ。

 私が驚いたのは、犬は誰が主人なのかをちゃんと見きわめていることだ。夫に「さあ、バッポ歩こう」といわれるとしぶしぶでも従うのだった。それでいよいよ疲れると私を見上げて救いをもとめるのがいじらしい。しかし面白かったのは、夫がビスケットで釣って自分のベッドに寝かそうとしても絶対に従わなかったことだ。

 夫の身体をいたわり遠出をするときなどは、私たちは必ず車を利用した。何しろ明月谷は右も左も坂道なのだ。鎌倉山には三度程出掛けた。時々稲村ガ崎のレストランにコーヒーを飲みに入るのだが、犬を車に残しておくと吠え出すので、急いで出て、公園か海岸を共に散策した。一度夫が体調の良い時、車を使わず裏山から半僧坊を経て、ゴルフ・コース、天園ハイキング・コースから鎌倉宮まで二時間余りも歩いたことがあった。この時は暑い日で、やっと喫茶店で休憩し、もう三人ともクタクタ。タクシーで帰ったのも良い思い出となっている。

 バッポが八歳の時、珍しく散歩をいやがり思わず叱ってしまった。でも彼女は少し離れた車までとぽとぽ歩き、ドアの前でじっと私を見上げるのだった。これはおかしいとそのまま獣医に連れて行った。検査の結果、子宮が悪いから手術と言われ驚いた。何て賢い犬だと感心した。「物言えぬ心は理路もあり深遠でもある。その考えを目で表現する」と『犬のいい話』という本にあるが、その通りだった。この時は本当に心配したが、一週間の入院の後、元気に退院することが出来た。

 犬にとっても私たちにとっても明月谷という自然の多い所に住んだのは幸いだった。残念なのは平らな緑のグラウンドがなく、他の犬たちと走り廻るチャンスがなかつたことだ。それでいつも人間と一緒だったので、周りの方にも「バッポちゃんは自分を人間と思っている」と言われた。海浜公園では夕方犬たちが遊んでいるので、一度放してみたが絶対走り寄って行くことはなかった。ここではサルーキ犬やボルゾイ犬を見ることが出来た。

 そんなバッポも一度恋をしたことがある。近くの老人の愛犬「シロ」で紀州と柴の雑種だがハンサムで精悍だった。出会うと力一杯尻尾を振り、鼻をつきあわせ、幸せそうだった。ある日はその家の高い階段の下でじっと座って待っていたり、ある時は私の引き紐を振り払って玄関まで駆け上がって行ったりした。だがシロは気位が高く、バッポに余り熱心でなく、短い恋で終った。もう一匹だけ鼻をすりあう犬がいた。毎朝きちんと今泉台から奥さんと降りてくる雑種の老犬で当時強かったドイツのテニス選手ベッカーの名がついていた。
 外出から帰った時、全身でその喜びを表し、散歩に早く行きたいとせがむ時、「……犬のその全身的な愛の表現に対して、人間の側でもおのずと愛を全面的に開放せずにはいられない。」と中野氏は記している。留守番をして待っていた犬に対して、し私は思う存分愛を表現することができた。
 私たちは特に芸を教えたりはしなかったが、お座り、お手、ころんが出来た。ころんはシャンプーをした後、乾かす時、ころんと言うとひっくり返りお腹を出した。もう一つは私が下から二階に寝ている夫にメモをくわえさせ、持って行かせるのであるが、これは気まぐれに成功した。

 年と共に夫は歩くのが短くなった。バッポも車の迎えを喜ぶようになった。車で二人の所に着きドアをあけるとバッポはさっと飛び乗って私の顔をなめるので、夫は「バッポはマミーが来るとそんなにうれしいか」といつも言うのであった。何しろ晩年は目的地まで車で行き、そのあたりを散策する程度だった。今泉台の鎌倉湖畔の森林公園にはしばしば出掛けた。また源氏山公園や江ノ島にも出掛けた。特に夫のお気に入りの場所は葉山の秋谷海岸だった。ここには秋や冬の暖かい日に低蛋白米のおにぎり持参で何回も出掛け、思い出の地になった。バッポは海岸の岩の上を自分のテリトリーとしてわが物顔で自由に歩き、そして道をへだてた喫茶店の外のテラスの椅子に座り、しばらくの間三人で海を眺めて楽しむのだった。

 平成六年、夫が慢性腎不全を併発する。人工透析を避けたいとの夫の希望で、でんぷん製品による食餌療法を摂ることになった。糖尿病もあるので五回に分食し、一日千六百カロリーでたんばく質はわずか三十グラム、これは病人の決意がよほど堅くないと続かないものだ。食事を作る私も工夫を重ねた。しかし夫は二年もすると次第に痩せ、散歩といっても車で海の空気を吸いに行く位で、それも時々と間遠くなっていつた。だが身体を温めるためお風呂に入る時、入院一ヶ月前くらいからバッポを一緒にいれるのだった。バッポも気持ち良さそうにしていた。そして平成九年九月、私とバッポを残してこの世を去ってしまった。
 葬儀の折、犬好きの富田夫人がご主人の亡くなった事を犬に教えないといけないと、抱いてお棺に近づけてくださった。その時バッポは涙を一滴流したと聞いた。これはどういう事なのでしょう。主人の死が理解出来たのでしょうか。

 エンゲハルト・トルムラーの『犬の行動学』には、
「様々な要求に応えてきた犬は、聡明で学習能力があり、人間との意思疎通においても驚くべき可能性を秘めているのです。犬は人間の種々表現方法を理解しますし、自分を理解してもらう術を心得ているのですが、それは学習の結果であることが多いのです」
と書かれています。きっとこれが当てはまるのでしょう。それはバッポが十二歳の時でした。密葬の二日間、彼女は私からも離れ、部屋の隅でじっとしていた。

 夫の死後二人とも寂しくて、毎日お向かいの稲垣さんのお宅に夕方の散歩の前、三十分お邪魔していた。いつもお部屋に上がらせてもらい、遊ばせていただいた。私が心身ともに疲れ、午後しばらくベッドで横になっていると、バッポは待ちきれず三時半ともなるとベッドに前足をかけて私を促すのだった。一年後、やむなく鵠沼に一時移ったがバッポはどうしてもその辺の散歩では気に入らないことが分かったので、車で鎌倉霊園に詣ってから稲垣さんの家にお寄りするとバッポは満足して帰るのだった。

 平成十一年の六月、私は慶應病院でのアイソトープ検査のため待合室にいた時、脳梗塞で倒れそのまま入院したのである。その前日、犬を獣医に預けていたことは幸いした。二週間で退院でき、その夕方獣医が連れて来てくれた。その時、バッポは私に飛びつくと思ったら、やっと椅子に座った私から一メートル程離れた所にじっと座り、それは今まで見たことの無い態度で見つめていた。その目は明らかに抗議をしていた。「バッポ、こういうわけでごめんね、マミーもつらかったの」と話してやると十分位しただろうか、私の膝に乗り眠りだした。やっと心を開いたようであった。それは人間とか動物とかの垣根を越えたものだった。
バッポ その後、私はひどい頭痛に悩まされ、散歩がつらい日が続いた。やむをえず犬を何頭も飼っている東逗子の植生さんという方を紹介していただき、預かって頂くことにした。十一年の九月のことだった。バッポを抱いてその方に手渡したが、見つめる目はこれがもう永遠の別れかも知れないとお互いに感じていた。
 その後、私は狭心症の発作を起こし、やむをえず東京の下町の生まれ故郷に戻った。その間、週に一度はバッポの様子を電話で尋ねていた。十二年六月の暑い日、もう危ないから来て下さいとの連絡で、やっとの思いで東逗子の家を尋ねた。しかし私はその最後に間に合わず、バッポはもう半分冷たくなっていた。苦しまず横になったまま息を引き取ったと聞き、それだけが救いだった。死因は老衰、犬の十四歳は人間にたとえれば七十をゆうに越えているはずだ。
 中野孝次氏の著『犬のいる暮らし』の中に「人間は何かに愛を注がず吋は生きていられない生きものである。愛されたいという願いよりも、愛したいという欲求を満たさずには生きていると実感できない。とくに老いた人間においてそうで、だから老人にとっての犬とは絶対的に愛を注いでやれる生きものなのである」とある。
 バッポ。あぁ、この犬はわが子、わが娘。十四年間も私を支え、幸せにしてくれたのだと心から感謝する。今も写真に向かってその名を呼んでいる毎日である。だが今の私の身体では二度と犬を飼うことは出来ない。
 今、私は二羽の小鳥と暮らしている。
                        平成十五年八月十四日

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